日本の祭りスポット

日本の祭りを紹介。グーグルマップでみる日本の祭り。祭りと歴史を探索。これで日本の祭りがわかる。

祇園祭




祇園祭(ぎおんまつり)は、京都の八坂神社(祇園社)を始めとした、祇園神(スサノオ・牛頭天王)を祀る神社の祭礼のこと。京都の八坂神社の祇園祭を手本とした祇園祭が各地に存在する。[要出典]その多くは7月から8月にかけて、疫病退散を願い行われる夏祭りである。


-----概要-----


祇園祭は京都の八坂神社の祭りで、京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭りの一つに数えられる。また、飛彈の高山祭、秩父の夜祭りと並んで日本三大美祭及び日本三大曳き山の一つにも数えられる。7月を通じて行われる長い祭りであるが、山鉾巡行や宵山が中心となる。宵山、宵々山には旧家や老舗での宝物の展示も行われるため屏風祭の異名がある。また山鉾巡行では文化財が公道を巡るため動く美術館とも称される。


かつての後祭にあたる、花笠巡行には祇園の舞妓も参加一説には869年(貞観11年)、疫病の猖獗を鎮める祈願を込めて、卜部日良麿が66本の矛で牛頭天王に御霊会を行ったのがその起源であるという。970年(安和3年)から毎年行うようになった。その後、応仁の乱や第二次世界大戦などでの中断はあるものの、現在も続いており、千年を超える歴史がある。かつては祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)とよばれていた。その略で、現在でも祇園会と呼ぶこともある。


宵山には毎年40万人以上の人が集まり、祇園祭最高の盛り上りを見せる。一方、山鉾巡行は、宵山ほどの人出はなく(それでもかなりの人出ではあるが)、祇園祭といえば前夜祭である宵山を先に思い描く人も多い。


ちなみに諺で時機を逃して用をなさないことを「後の祭り」というものがあるが、これは祇園祭の大一番である山鉾巡行が終わり、この後の祇園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされる。また、祇園祭は1966年(昭和41年)まで「前祭」(7月17日)と「後祭」(7月24日)の2回に分けて山鉾巡行を行っていた経緯があり、「前祭」では山に加え豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、「後祭」では鉾の巡行が無く山のみの巡行で、小規模であることからこの諺が言われるようになったという説もある。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山王祭り


山王祭(さんのうまつり)は東京都千代田区の日枝神社の神幸祭の祭礼。正式名称は「日枝神社大祭」。毎年6月15日に行われており、天下祭・江戸三大祭の一つとされている。

----------歴史----------
日枝神社は既に南北朝時代から存在したとも言われているが、太田道灌によって江戸城内に移築され、更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになった。

元和元年(1615年、寛永12年(1635年)とする異説もある)には、祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになった。天和元年(1681年)以後には、神田明神の神田祭と交互に隔年で行われる事になった。

江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、祭礼の祭には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。それでも最盛期には神輿3基、山車60台という大行列となった。また、後に祇園会と混同されて、江戸を代表する夏祭りとして扱われるようになった。

そんな、山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂・慶喜)が上方に滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った。続いて明治22年(1889年)を最後に市街電車の架線によって山車の運行が不可能となった。更に太平洋戦争の空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されている。



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仙台七夕祭り


季節になると、このあたり一帯が飾り付けられる。


----------歴史----------
仙台藩祖・伊達政宗によると言われるが、詳細は不明のままである。七夕飾り・祭り自体は、江戸時代中期頃から全国各地で行われていたため、仙台が元祖というわけではない。しかし、明治に入ってからは新暦の採用などで年々衰退の一途を辿っていった。

1927年に商人有志らによって再び大規模な七夕飾りが飾られるようになり、祭りは活気を取り戻すようになった。まだ今日のような大規模なものではなかったが、戦局の悪化とともに再び小規模なものへとなっていった。

戦後の1946年に復活し、現在のような形式で開催されるようになった。全国の七夕祭りのほとんどが、戦後の復興を目的にこの頃から始まっており、通算回数に大きな違いはない。仙台・平塚の七夕を模範とする自治体は、日本三大七夕(明確な定義がないため、複数の名乗りがある)と称していると言う。平塚については、仙台を模範とすると言う。


----------本祭----------
七夕祭の本祭は、8月6日から8日までの三日間連続して行われる。大規模な飾り付けがされるのは、一番町商店街(東一番丁通り)や大町商店街(中央通り)などの中心部商店街(アーケード街)や仙台駅周辺などであるが、市内各所至るところに小から大までの飾り付けがなされ、街中が七夕一色になる。

ただし、「祭」といっても、秋田の竿灯や青森のねぶたのような熱気はなく、飾り付けを見て、商店街の七夕セールや露店をひやかすというものである。そのため、七夕を見に来た人が秋田や青森のような祭りを期待していた場合は、「期待外れでつまらない」という感想を持ってしまうことが多い。また、竿灯やねぶたと違い、絶えず人の流れに合わせて歩いていなければいけない(商店街はかなりの人混みとなる上に、七夕飾り自体で見通しが悪くなり、さらに七夕飾りを背景に写真を撮る人も多い)。


----------飾り付け----------
仙台七夕の飾り付けは大きく重いため、設置手順が家庭の七夕飾りと異なる。まず、商店街内に店舗を構える各事業所が、滑車をつけた10m以上の竹を、道に埋め込んである専用の差し入れ口に差し込んで立てる。次に、滑車に通した紐に吹流しなどの飾り付けをつけ、紐を引っ張って飾り付けを引き上げる。最後に紐を固定する。

この方法により、道の中央にアーケードのない一番町四丁目商店街では、急に雨が降ってきた場合に吹流しを降ろしてビニールを被せることが出来るようになり、適宜天候に合わせた展示が出来るようになった。また、他の全天候型アーケードのある商店街も含め、夜になると一度飾り付けを降ろして折り畳むかビニール袋などに包んで小さくし、通行人が触れられないほど高くに引き上げている。これによって、深夜・早朝において飾り付けの破壊行為をされるのを防いでいる。


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